【紀行雑記6-1 無意味である意味】

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瀬戸内海の離れ小島。風のない浜辺に穏やかな波が打ち寄せている。時折小さな魚が飛び跳ねてはポチャリ、と波間に水の輪を作る。輪は次第に広がり消えていく。

周囲をぐるりと囲む島の主要道路はぐねぐねと蛇行しながらその海抜を上下させる。港から少し進むともう海は遥か眼下にあって、遠く四国を臨んでいる。上下左右に私を振り落とそうとする道路を進むと、コンクリートで舗装された傾斜のある脇道が見えてくる。

 

ーーー地中美術館

一昔前の鉄筋コンクリを彷彿とさせる佇まいは芸術とは対照的な印象を与える。無機質な建築と色のない空間。四方に高く聳える灰色の壁に切り取られた空だけが辛うじて外界との連続性を保っている。階段を下り、細い道を進むとジェームズ・タレルの作品群が見えてくる。

その中で人々が列を成す展示がある。オープンフィールドと呼ばれるそれは部屋全体が1つの作品であり、鑑賞というよりは体験に近い。

部屋に通されると、目の前に数段の階段があり、その向こうにスクリーンが見えてくる。一列に並ばされた我々体験者は館員に促されて階段を登り、スクリーンの前に立つ。

刹那、それは全くの勘違いであることに気付く。スクリーンだと思っていた視界は足を踏み入れた瞬間、奥行を増し、我々はそこに空間があることに気付くのだ。否、我々の行為そのものが空間を創発したと言っても良いのかもしれない。兎も角、そこには影のない空間が広がり、脳は即座に次元性を消失する。

 

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いつか"(現代)芸術とは問いの共有である"と書いたことがあるように思う。しかしそれは少し違うように思える。即ち、我々は問いすらも共有しておらず、唯一、

『現象のみを共有している』

に過ぎないのかもしれない。つまり、そこからどんな問いを構成し、どのようなアプローチで、どのような答えを導くかは全て体験者たる我々に委ねられている。それがインスタレーションの本質であり、"現代芸術の科学化"である。

科学者は複雑な自然現象からある側面を切り取り適切な"問い"を立てた上でそれを論理的に解明しようとする。例えば、一見"惑っている"だけに見える天体たちは実はある法則のもとで太陽の周りを回っている、と言ったように。

 

作品に踏み込んで次元性を奪われた我々に唯一許されるのは適切な問いの設立とその解釈のみである。我々は芸術作品の一員として"科学する"。生命の時空間認識、アプリオリとアポステリオリ、問いは数多発散し、其々に其々の解釈が加わる。n次元にふわふわと浮いた精神は問いの海で科学する。

 

であるならば作品は出来る限り"無意味"であるほうが良いのかもしれない。問いを立てる前の現象に付与された外的な意味性は無意味である。むしろ、無意味であることに意味があり、価値があるのだ。意味を掘り起こすのは、意味を削り出すのは体験者たる我々なのだから。

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凪を迎えた島の尾根に夕陽が沈む頃、波止場に船が付く。ガス臭い甲板から本州が見えた。

 

 

【雑感 酒と煙草、もしくは◯◯について】

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葉巻を吸ったことがあるだろうか?そうそう、今思い浮かべた、あのキューバの軍人が吸ってそうなぶっといヤツである。

私は普段はタバコをやらないのだけど、東京やなんかに行くと悪い先輩がいて、私に心地よい苦味と甘美な背徳感をクルっと巻き込んだ、そのぶっといヤツの入れ方を教えてくれる。彼が言うには、"葉巻は紙巻と違って吸った煙を肺に入れないから中毒性が低い"らしいが、あのなんともイカツイ見た目からして説得力は希薄である。ゴリゴリに刺青が入ったにーちゃんに、"ぼく人殴ったことないよ"って言われても、絶対嘘やん!って、そんな感じ。

まぁ、ともかく、人生なんでも経験ちゅーワケで私もやってみるのだが、これが案外に"難しい"。

 

難しいってたって、火をつけて吸うだけだヨ。無論言葉にしてしまえばそうなのだが、口に運ぶ間隔や灰を落とすタイミングを誤るとすぐに火は消えてしまう。それに肺に入れずに楽しめなどと言われても、そもそも人間の体は口に含んだ空気を肺に入れるようにできているのだから体からすれば道理に合わない。(まぁ嗜好品などというのはそもそも幾らか道理に反した代物なのだろうけど)

それでも何とかかんとか、生まれたての赤ちゃんが乳を吸うみたいに、覚束ない動作をこなしていると、葉巻の先端から拡散してゆく煙と目が合う。ユラユラと目の前の空間を登るそれは、一見無秩序に見えてなんらかのパターンを形成し、そのうちに消えていく。否、消えていくという表現は厳密でないかもしれない、煙はただ広がって、私の両眼の分解能より低い密度に拡散していく。やがてこの微粒子たちはどこか遠くの街まで行ったりするのだろうか。

 

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ところで、と脳内会議の議長がハードボイルド担当のヒゲモジャの話を切った。

 

"ところで、我々はタバコの何を楽しんでいるのだろう"

 

嗜好品というのはそれそのものより、むしろ"それを相手にしている私を内包する時空間全体"を楽しんでいる、という話は何処かに書いた気がするが、それにしたって葉巻でも酒でも、『それそのもの』の何かを楽しむという名目でやってるワケだから、なんというか、『それそのもの』単独でも有意味なハズなのだ。

 

あじ?におい?それとも本当に"葉巻を吸っている自分"を愛でているだけなのだろうか?(もちろん依存性という答えが最もストレートな訳だがそれはあくまで客観的な説明であって吸ってる人にしてみれば依存性もクソもない)

 

酒だってそうだ。ウイスキーを傾けている時に、私は何に対して興奮しているのか。たしかに味は上手いと言っているけれど、うーん、オレンジジュースの方が甘いしなぁ。仰々しく匂いを嗅ぐけれど、じゃあヨードチンキで興奮するかっていうとそんなことはないし。…結局、私は酒の何を楽しんでいるんだ?

 

…煙のように出てきたギモンはやはり煙のように頭の少し上あたりをグルグルと回っている。

 

私が酒を飲んでいるときや、悪い先輩がタバコを吸っている場面を丹念に思い出してみると、どうやら酒やら煙やらを口に含んだ後に最もいやらしい顔をしている。丁度、口の中に"味"と"匂い"が満ちるタイミング、その時間発展を五感を総動員して感じる時、あ、それそれその顔、あぁなんといやらしい顔なのだ…。

 

 

 

…つまるところ、我々は"美味い"という概念に五感の色々な入力値を詰め込みすぎている。鼻をつまんで食べる料理があまり美味しくないのも、暗闇ですするラーメンの味がしないのも、結局、"美味い"という概念に、味覚だけではなく、嗅覚も視覚だって深〜く関係しているとうことなのだ。酒もタバコも例外でなく、その"美味さ"は味覚や嗅覚だけで議論できるものではないということだ。

 

どうだろう、私たちは1つの言葉や概念に多くの感情を詰め込みすぎているのかもしれない。単純に思えることにも本当は感性いろいろな要素が入っていてそれらの微妙な割合こそ、『それそのもの』の本質なのかもしれない。

 

【雑感  酒と煙草、もしくは◯◯について】

 

◯◯には何が入るだろうか、人生、愛情、いやもっと日常的な、"脇道の生垣に咲く春の花の良い香り"みたいな、そういうふとした瞬間の感情すら、複雑で微妙な何かを含んでいるのかもしれない。

 

…飲んでる時はなーんにも考えてないのだけど。

 

【紀行雑記5-1 砂曇りのカンバス】

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飛行機はゆっくりと高度を落としていく。時折の微動を繰り返しながら、厚く重たい雲の中を突き進んでいく。窓に切り取られた視界は一面汚い磨りガラスで我々がどのくらい地面に近づいたか全くわからない。それでも、宙に浮く鉄の塊は確実にその体を落としていく。

厚い雲を抜けると、切り立った山々に囲まれた街が見える。まるで成長を競争するように乱立する高層ビル群は、街の狭さと、そこに生きる人々のアンバランスを象徴する。マカオ。暗く立ち込めた空の下にはやはり暗く陰鬱な海が広がる。

 

空港を出て、街を歩くと、一種の違和感に苛まれる。西洋風の歴史建築にかかる中国語の看板たち。ヨーロッパを思わせる石畳を走るアジア系の俳優が描かれたタクシー。文化遺産と裏路地の雑居ビル。今まで脳内で決して出会うことのなかった者たちが大挙をなして襲いかかってくる。私はそういう違和感を顔面にめいいっぱい受けながら、街の看板へと視線を向ける。色とりどりの電飾に見たことがあるようでない漢字が踊る。あぁ、私は異国に来たのだな。やっとそこで実感が湧いてくる。その緊迫感と、ある種の安堵が入り混じった複雑な感情は、まるでこの街の風景のようだ。

 

油絵のようなポルトガル建築の上に、水彩で描かれた中国語。そしてそれらを包み込むくすんだ大気とくらい海。知らない土地、砂曇りのカンバスの上で人々は息をしていた。

【紀行雑記4-1 埋もれる】

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今更東京を舞台に語られることなどもう何もないかもしれない。この街を歩いて、昔誰かが見つけた感情の断片を拾ってはまるでそれを初めて見つけた冒険者のような顔をしているが、やはりそれは既に誰かが語った何かであって、もうそこに新しさというのはないかもしれない。

それでも尚、心の臓の奥の方に出る思いというのがあって、首を擡げたそれらは両の腕では持ちきれないほどの重さになっている。

そういう類の、この街で拾った感情というものは、待ちきれないほど重い割には、一晩寝て仕舞えば消えてなくなる。丁度それはドライアイスみたいに、気づいた頃にはフッとなくなっているのだ。だから私はそういう重たくも儚い何かを紀行雑記として留めておくことにしようと思う。

 

池袋西口公園から10分ほど歩いた街はずれの方にある小さなバーで、棚に並ぶ酒瓶を眺めている。手元にはボウモアのシングルが半分くらい残ったチューリップがあり、店内にはタバコの煙が揺蕩っている。棚の隣に目をやると、壁掛けのモニターには何処か異国の映画が流れていて、官能的な男女のまぐわいが映し出されている。私はなんだかとても厭世的な気持ちになって、歩いてきた東京の風景を瞼の裏側でゆっくりと反芻する。

眠らない街には眠れない人々がいて、その息遣いはあまりにも生々しい。ネオン街の浮浪者や夜中でも鳴り止まない工事現場、裏道を彷徨うビニル袋に至るまでが彩度を失った青い街を作り上げている。それは丁度、ピカソの泣く女のように、歪だがちゃんと一個としてそこに存在していて、ギリギリの安定を保っているように見える。

 

私達は、風景をどのように見るのだろう、とふと考える。私達はそこにある何かから感情の断片を拾っているように錯覚しているけれど、もしかするとそれは全然反対の話なのかもしれない。そうではなくて、今私が内包している感情を風景にぶつけているのではないか、と思うわけだ。浮浪者の横顔に憂いを重ね、工事現場の騒音に焦燥を重ね、揺れるビニル袋に孤独を重ねているのではないか。だから、きっと、私達は東京を眺めているようで、本当は自分自身を眺めているのではないか。もしかすると、大きな街に感じる不思議な懐かしさの根源は、斯様な事情に依拠するものなのかもしれない。

雑踏に埋もれて、私は私を見失うような錯覚に陥るが、それはアイデンティティの喪失などではなくて、むしろ新たな自己の発見によって、アイデンティティの修正を迫られている状態だろうと思ったりするのである。

 

今度来る時は、また違った街に見えることを期待して、最後の一口を飲み干した。

 

【雑感 食い意地の分析哲学】

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ーーーおよそ像が写像されるものの像となりうるためには、像と写像されるもののうちに、何か同一のものが存在しなければならないーーー(『論理哲学論考』)

 

 

誰かと食堂に入って、私はうどんを頼んだのに、向かいに座る人がカレーを頼んだら急にカレーが食べたくなった、というような経験は誰にでもあるのではないか。今までうどんに胸膨らませていたのに、カレーという言葉を聞いた途端、うどんはジワジワとその地位を失って、やがて陳腐で滑稽に見えてくる。

どうして私はカレーにしなかったのだろう。

後悔というよりは過去の私に対する憤怒に似た感情を抱えながら、味のしなくなったうどんをすする。はぁ、今度来た時はカレーにしよ。

 

ところで、こういう類の"食い意地"的発想はどうして生まれるのだろう。

 

我々は類似した現象が多発する時、そこに何らかのメカニズムが存在する可能性を疑う。いわゆる再現性、というやつだ。そしてどのようにすればメカニズムを明晰的に説明しうるかということを考える。まぁおよそ科学というのはそういう営みです。多分。

 

ちゅうわけで、斯様な現象をうまく説明したいのだけど、話があんまりにも漠々然としているのでもうちょっと構造化することにしよう。

 

1.私は食堂に入り席に座ったタイミングでうどんを食べたかった。

2.その後カレーが食べたくなった。その原因は向かいの人がカレーを頼んだからだ。

3.うどんもカレーもまだ見ていない。

 

というのが今回の出来事を構成する事実である。(あんまりにもバカバカしいことを書いているなと自認しております)

 

さて、少々ペダンティックではあるが、この現象を説明するために、分析哲学言語哲学の大家ヴィトゲンシュタインによる"像の理論"を借用することにしよう。

像の理論とは、

" ある言語によって構成された命題はそれと一対一対応する像を持ち、像を持った命題(事実)の総体が世界である "

というもの。(専門家の方へ、門外漢ですのでご容赦ください)

楽譜と音楽、地図と土地、言葉と物事…なにかを説明する"言語"と説明される対象、そこに結ばれる像の理論。(詳しくは『論理哲学論考』で検索)

席に座った私は、

1.うどんを食べる

という命題pを念頭に置いていた。この時、私の中の論理空間にはpという命題とその否定、〜pが存在している。但し、ヴィトゲンシュタインによると、うどんを食べるというpに対応する像はあるが、うどんを食べない(〜p)には像がない。(なんのこっちゃ)

 

そして向かいの人によって新たに

2.カレーを食べる

という命題qが提示される。すると論理空間の中ではどのような変化が起こるか、それが私がここで問題にしたいことである。

 

即ち、もともと像を持たなかった〜pという命題に向かいの人がカレーを頼んだことでqが対応づけられる。つまり、

カレーを頼む前

→〜pには像がない。

カレーを頼んだ後

→〜p=qが成立し、うどんを食べないという命題がカレーを食べるという命題に(その場で)関係付けられる。〜pに像が生まれる。

 

つまり、2の後に〜pに対応する像が生まれ、したがって私の中で"うどんを食べない"という選択肢がより明瞭になるわけである。(なんのこっちゃ)

 

(注意、以降の文章はほとんどなにも伝わらないと思います)こういう構図は食い意地以外にも当てはまるのではないかと思ったりする。つまり、ある肯定的命題pが存在するとかそこには〜pも存在する。しかし後者は像を持たず、我々はしたがってpに比べて〜pを過小に評価する。しかし、〜pを別の肯定的命題qで置換すると今度はパワーバランスの逆転が起きて評価軸が変わる、というようなことである。(言語を相手にした像の理論と人間の欲求を関連付けたかった)

 

 

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もはや行き過ぎた衒学趣味、奇妙奇天烈な文章になってしまっていて、私自身もどこに着地させれば良いかわからなくなっているのだが、最後に、どうしてこうも馬鹿げたことを考えてみたか、ということについて付記してこの陰鬱なポエムを終えたいと思う。

 

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学とは何か、という問いに対する私の答えは人生の各ステージで変容し止まるところがない。しかし今現在、学とは"有用であること"だと考えている。(プラグマティズム的なと解釈してもらっても良いです)

我々の脳髄が学問と呼んで囃し立てている不可解な論理体系は、(少なくともある面で)この世界を説明できなければならない。この世界の非自明な事象の一端を説明できなければならない。それは未知を探求する科学でも、既知を考究する哲学においても変わらない、私はそう考える。

したがってこの荒唐無稽な考察は哲学がある非自明な現象を解説する可能性があることを提示したいという欲求の発露である。

 

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ふぅ、誰が乗り移ったらこんなイタイ文章になるねん。疲れた。おわり。

 

 

 

 

 

 

【仮説 我々はあと何分で幸せになれるか】

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私が自己存在について最も深く考察するは、決まって金曜日の朝である。私を私たらしめる要素について、もしくは私の中にある私ではない要素について、思索を巡らせる。厭世的に、或いは楽観的に。

 

 

 

ふぅ、まったく、どうしてこうも毎週お腹が痛くなるんだろう。どうしていつまでたっても家でトイレに行こうと思わないんだろう。

 

私は毎週のようにバスでうんこを我慢している。私を支配する耐え難き苦悩に気付く者は誰もいないし、その原罪の意味については私だってわからない。しかしとにかく、腹が痛い。

 

降車駅に近付くにつれ、下腹部の悪魔はいよいよその存在感を強め、一瞬でも気を抜こうものなら即座に車内を支配せんとする勢いでもって訴えかけてくる。もう、本当にダメかもしれない。

 

(中略)

 

それでもなんとかバス停に着いて歩き出す、近くの駅から今度は電車に乗るのだが、この駅にはそこそこ信用できるトイレがあるのだ。

(*トイレに対する信用、という考え方に不慣れな方もいるかもしれませんが胃腸の弱い小生のような者にとってトイレの使いやすさ、空き具合、紙の有無など、トイレには信用できるものとそうでないものがあります)

 

そんなわけでここから私と悪魔のチキンレースが始まる。押し寄せる波の合間に束の間存在する引き波、悪魔不在のこの瞬間にどれだけトイレに近づけるか、私の私による私だけのチキンレース。これはもう、人生の縮図だ。

 

(中略)

 

チキンレースに耐え抜くとまもなく天国が見えてくる。あぁ、長かった、悪魔ともこれでお別れだ。せいぜい下水処理場で可愛がられてくれ。

…と、そうスンナリと終わればカンタンなのだが、そうではない辺りが人生の難しいところである。私と同じような顔をしたオッサンたちが並んでいるのだ。天国の順番待ち、幸福への待合室。

 

ここまできて、負けるわけにはいかない。ポケモンサファイアで言えばチャンピオンロード通過、HUNTER×HUNTERグリードアイランド編で言えばゲンスルーを追い詰めた辺りだろうか。

とにかく、トイレでうんこを漏らすなんてのは末代までの恥である。ここからは精神力勝負。

 

むむ、ところで、

 

私は一体とどのくらい待てば良いのだろう。

 

と、そんなことを考えてみる。気を紛らわしているのだ。

ふむふむ、そういえば待ち行列理論という応用数学の話があったな、などと思い出す。人は逆境に立たされた時に真なる力を発揮するものだ。冴えている。

 

待ち行列理論。電話交換手や、病院などの公共サービスの待ち時間、情報処理などの性能評価に用いられる数学理論で、早い話が"どれくらい待てばサービスにありつけるか"ということを考える分野だ。これはうんこ待ち行列にも使えるかもしれない。

 

待ち行列理論の数理モデルは非常に多岐に渡るのだが、最もシンプルなものを考えてみる。(うんこ我慢してるから複雑な計算はできない)

必要な情報は、

1.待つ人がどのくらいの時間で増えるか。(単位時間あたりの待機者の増加率)

2.1人がトイレを終えるのにかかる時間。(1人がサービス処理に要する時間)

である。

用いるモデルはM/M/1モデルというやつで、これは真面目な話をすると、

1.待ち行列の待機者の増加確率が指数分布

2.サービス処理にかかる時間の確率分布が指数分布

3.サービス処理窓口が1つのみ

というモデルである。

 

このモデルから得られる平均待機時間は、

 

(平均時間) = (待機者増加速度) / *1 × (処理時間)

 

で計算される。(詳しくは待ち行列理論で検索してください)

 

てなわけでテキトーな値を入れて計算してみる。だいたい2分に1人オッサンが増えて、5分でうんこするとしよう。個室は4つあるからうんこする時間は4で割るか。そうすると…

 

待ち時間はだいたい2.06分!(うんこ我慢してるので間違ってるかも)

 

つまり、私は並んでから2分待てば天国へたどり着けるわけである。幸福を、この手に掴むことができるのだ。

 

…悪魔そっちのけでそんなことを考えていると、2分もしないうちに個室が開いた。旅の終わりである。

 

 

今、ホームに立ってこの文章を書いている。あの凄惨な闘争がもう遠い過去のようだ。そういえばさっき考えていたトイレの待ち行列、大学に着いたらもう少し複雑なモデルで定量化してみるか。

…そんなこと言ってるからまた我慢するハメになるのだけど。おわり。

 

 

 

(この話にオチはありません。うんこ漏らしたら盛大なオチになったけどさすがにそこまで体張れません。)

*1:処理時間) ー (待機者増加速度

【雑感 いちごジャムと距離空間】

(訳あってvol.2になりました。これまでの記事は、http://tsurezurenaruzatsubun.hatenablog.comにあります)

 

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ーーーある集合に"構造"が存在する時、我々はそれらを"空間"と呼び、またその"構造"が"ある条件"を満たしていれば、その空間には"距離"が存在するーーー

 

 

久々にいちごを食べた。ザラザラした感覚を舌で確かめながらふと、"私はどうしていちごが好きなのだろう"などと、取り留めのないことを考えてみる。

そういえば、いちごは好きだけど、イチゴ牛乳はそんなに好きじゃない。いちごは好きだけど、ハイチュウの大袋にはいつもイチゴ味だけが残る。いちごは好きなはずなのに、いちご"らしさ"を求めているはずのイチゴ味加工食品は好きにはなれないのだ。

 

いちご"らしさ"はきっと、イチゴ嫌いの中にある。

 

例えば、"異文化の考察は自文化の発見に繋がる"という警句に従うならば、イチゴ嫌いの考察は、いちご"らしさ"の探求に等しいわけである。

 

そんなわけで通学の道すがらぼーっと考えてみる。そうするとバカみたいな問題のはずなのにうまく構造化出来ていない自分を見つけたりする。

 

まず、いちご(果物)とイチゴ(加工食品)の共通点を考えてみる。うむうむ、やっぱり香りと味は果物に近いはずだ。当たり前だ、だってそれがイチゴ味ってことだから。特に甘さはいちごを超えているかもしれない。ん?酸味はどうだろうか、いちごには程よい酸味があるが、イチゴ味にはこれがないような気がする。

 

続いて相違点。物にもよるが、イチゴにはいちごの食感がない。これは加工食品として捨象せざるを得ないのだろう。みずみずしさもない。これは酸味とも関係していそうだ。みずみずしさのない酸味とは辛いものがある。

 

なんだか、漠然とだけど全容が見えてきた気がする。もう少し明確にするために"いちご空間"というのを考えてみよう。

先に述べたように、空間には考察の対象となる集合とそれらを繋ぐ構造が必要だ。いちご空間について、もちろん登場人物はいちごと、イチゴ味加工食品の皆さん。そして彼らはいくつかの値を持っている。(甘さ、酸味、舌触り、みずみずしさ)、こんな感じ。

するといちごとイチゴ達の間には"距離"を定義することができる。距離にもいろいろあるが、まぁとりあえずはユークリッド距離的なもので良いだろう。

 

これまでの考察をいちご空間で考えると、いちごとイチゴはきっと、甘さのベクトルではかなり近い位置にある。そしてそれは人々の多くが求めるところでもあるのだろう。しかし逆に舌触りやみずみずしさという観点ではいちごとイチゴにはかなりの距離が存在するようだ。加工食品であるが故に、捨てざるを得なかった部分である。いちごらしさとは、その強い甘みだった、ということになる。

 

この結論はいくらか示唆的である。というのも、人々の考えるいちごらしさにはある特徴があって、それはつまり人々がいちごと言われてイメージするいちごと実際のいちごとの間にも距離がある、ということを示している。これはプラトンイデア論的で、我々のアタマの中にはやっぱりいちごのイデアがあって、その"理想いちご"は甘みが強く、酸味が弱い。

 

最初の疑問に戻ろう。私はいちごの何を愛したか?

 

私個人は"いちごらしい部分"よりも"いちごらしくない部分"を愛しているということになる。加工食品が捨象してしまった、いちごの忘れ去られた側面こそが私を惹きつけているのだ。

 

 

 

村上春樹は自著の中で"自己と他者との距離こそが私を私として規定する"というようなことを述べている。とすると、いちごと私にもやはり幾ばくかの距離があって、その絶妙な距離感こそが私らしさなのかもしれない。そしてここに綴る文章はいちごと私の距離、さらには私らしさを照らしているのかもしれない。

 

 

最後に、いちごジャムは加工食品だけど大好きで、マーマレードは嫌いです。おわり。