【雑感 いちごジャムと距離空間】

(訳あってvol.2になりました。これまでの記事は、http://tsurezurenaruzatsubun.hatenablog.comにあります)

 

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ーーーある集合に"構造"が存在する時、我々はそれらを"空間"と呼び、またその"構造"が"ある条件"を満たしていれば、その空間には"距離"が存在するーーー

 

 

久々にいちごを食べた。ザラザラした感覚を舌で確かめながらふと、"私はどうしていちごが好きなのだろう"などと、取り留めのないことを考えてみる。

そういえば、いちごは好きだけど、イチゴ牛乳はそんなに好きじゃない。いちごは好きだけど、ハイチュウの大袋にはいつもイチゴ味だけが残る。いちごは好きなはずなのに、いちご"らしさ"を求めているはずのイチゴ味加工食品は好きにはなれないのだ。

 

いちご"らしさ"はきっと、イチゴ嫌いの中にある。

 

例えば、"異文化の考察は自文化の発見に繋がる"という警句に従うならば、イチゴ嫌いの考察は、いちご"らしさ"の探求に等しいわけである。

 

そんなわけで通学の道すがらぼーっと考えてみる。そうするとバカみたいな問題のはずなのにうまく構造化出来ていない自分を見つけたりする。

 

まず、いちご(果物)とイチゴ(加工食品)の共通点を考えてみる。うむうむ、やっぱり香りと味は果物に近いはずだ。当たり前だ、だってそれがイチゴ味ってことだから。特に甘さはいちごを超えているかもしれない。ん?酸味はどうだろうか、いちごには程よい酸味があるが、イチゴ味にはこれがないような気がする。

 

続いて相違点。物にもよるが、イチゴにはいちごの食感がない。これは加工食品として捨象せざるを得ないのだろう。みずみずしさもない。これは酸味とも関係していそうだ。みずみずしさのない酸味とは辛いものがある。

 

なんだか、漠然とだけど全容が見えてきた気がする。もう少し明確にするために"いちご空間"というのを考えてみよう。

先に述べたように、空間には考察の対象となる集合とそれらを繋ぐ構造が必要だ。いちご空間について、もちろん登場人物はいちごと、イチゴ味加工食品の皆さん。そして彼らはいくつかの値を持っている。(甘さ、酸味、舌触り、みずみずしさ)、こんな感じ。

するといちごとイチゴ達の間には"距離"を定義することができる。距離にもいろいろあるが、まぁとりあえずはユークリッド距離的なもので良いだろう。

 

これまでの考察をいちご空間で考えると、いちごとイチゴはきっと、甘さのベクトルではかなり近い位置にある。そしてそれは人々の多くが求めるところでもあるのだろう。しかし逆に舌触りやみずみずしさという観点ではいちごとイチゴにはかなりの距離が存在するようだ。加工食品であるが故に、捨てざるを得なかった部分である。いちごらしさとは、その強い甘みだった、ということになる。

 

この結論はいくらか示唆的である。というのも、人々の考えるいちごらしさにはある特徴があって、それはつまり人々がいちごと言われてイメージするいちごと実際のいちごとの間にも距離がある、ということを示している。これはプラトンイデア論的で、我々のアタマの中にはやっぱりいちごのイデアがあって、その"理想いちご"は甘みが強く、酸味が弱い。

 

最初の疑問に戻ろう。私はいちごの何を愛したか?

 

私個人は"いちごらしい部分"よりも"いちごらしくない部分"を愛しているということになる。加工食品が捨象してしまった、いちごの忘れ去られた側面こそが私を惹きつけているのだ。

 

 

 

村上春樹は自著の中で"自己と他者との距離こそが私を私として規定する"というようなことを述べている。とすると、いちごと私にもやはり幾ばくかの距離があって、その絶妙な距離感こそが私らしさなのかもしれない。そしてここに綴る文章はいちごと私の距離、さらには私らしさを照らしているのかもしれない。

 

 

最後に、いちごジャムは加工食品だけど大好きで、マーマレードは嫌いです。おわり。