【紀行雑記4-1 埋もれる】

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今更東京を舞台に語られることなどもう何もないかもしれない。この街を歩いて、昔誰かが見つけた感情の断片を拾ってはまるでそれを初めて見つけた冒険者のような顔をしているが、やはりそれは既に誰かが語った何かであって、もうそこに新しさというのはないかもしれない。

それでも尚、心の臓の奥の方に出る思いというのがあって、首を擡げたそれらは両の腕では持ちきれないほどの重さになっている。

そういう類の、この街で拾った感情というものは、待ちきれないほど重い割には、一晩寝て仕舞えば消えてなくなる。丁度それはドライアイスみたいに、気づいた頃にはフッとなくなっているのだ。だから私はそういう重たくも儚い何かを紀行雑記として留めておくことにしようと思う。

 

池袋西口公園から10分ほど歩いた街はずれの方にある小さなバーで、棚に並ぶ酒瓶を眺めている。手元にはボウモアのシングルが半分くらい残ったチューリップがあり、店内にはタバコの煙が揺蕩っている。棚の隣に目をやると、壁掛けのモニターには何処か異国の映画が流れていて、官能的な男女のまぐわいが映し出されている。私はなんだかとても厭世的な気持ちになって、歩いてきた東京の風景を瞼の裏側でゆっくりと反芻する。

眠らない街には眠れない人々がいて、その息遣いはあまりにも生々しい。ネオン街の浮浪者や夜中でも鳴り止まない工事現場、裏道を彷徨うビニル袋に至るまでが彩度を失った青い街を作り上げている。それは丁度、ピカソの泣く女のように、歪だがちゃんと一個としてそこに存在していて、ギリギリの安定を保っているように見える。

 

私達は、風景をどのように見るのだろう、とふと考える。私達はそこにある何かから感情の断片を拾っているように錯覚しているけれど、もしかするとそれは全然反対の話なのかもしれない。そうではなくて、今私が内包している感情を風景にぶつけているのではないか、と思うわけだ。浮浪者の横顔に憂いを重ね、工事現場の騒音に焦燥を重ね、揺れるビニル袋に孤独を重ねているのではないか。だから、きっと、私達は東京を眺めているようで、本当は自分自身を眺めているのではないか。もしかすると、大きな街に感じる不思議な懐かしさの根源は、斯様な事情に依拠するものなのかもしれない。

雑踏に埋もれて、私は私を見失うような錯覚に陥るが、それはアイデンティティの喪失などではなくて、むしろ新たな自己の発見によって、アイデンティティの修正を迫られている状態だろうと思ったりするのである。

 

今度来る時は、また違った街に見えることを期待して、最後の一口を飲み干した。