【雑感 墓碑銘のない言葉たちへ】

あまりにも観念的になる。

 

昔から文章を書くことが好きだった。さらに言えば、幼い頃は自分には文章を書く才能があるのではないかと思ったこともあった。夏休みの読書感想文や税の作文では何度も賞をもらったし、冬休みの思い出なんかは本に載ったこともある。残念ながら当時の自信はどこかに置いてきてしまったのだけれど、とにかく文章を書くことが好きなのだ。

だから今もこうして、忘れた頃にやってくるしゃっくりと同じくらいの頻度で細々ブログを書いている。

 

物を書く中で私には不思議なことがある。

"音"を感じるのだ。

否、物を読んだり、または聞いたりするときにもソイツを感じることがある。言語化するのはとてもとても難しいのだけど、とにかく心地の良い質感のようなものを感じる。無理くり説明しようとすると"文の長さやリズム"、"言葉の運びや句読点"、みたいなものが『ある調和』を持つ文章に出会うとき、なんとも言えない気持ち良さを感じるのだ。

その、"音"による覚醒作用はしかし、少しでも調和が崩れた文章では全く不快なものになってしまう。非常に重要な内容であってもその"不協和音"のせいで読み進めることができなくなることがあるし、自分の書く物の中に不快な音の運びを感じることもある。

日本語がヘン、とか文法がヘン、とか言うのにも少しは似ているがやはり何か違う。全く辞書的に問題のない文章にも禁則和音が潜むことがある。

そういう、恐らく最も根源的だが最も捉え難い、ウイスキーを飲み込む後に一番最後にフッと抜けるピート香のようなものを、"音"と呼んでいる。(どこかにより適切な言葉があるようにも思うが)

 

その質感に気付いた頃から私は"音"の正体を探し続けている。そしてその挑戦は文章を書く営みの大きな動機と言っても過言でない。徹頭徹尾心地よい文章を書くために、または、心地よさをロジカルに説明するために、私は"音"に書かされ続けている。

また、その営みの裏には完成しなかった文章の死骸がうず高く積み上がっている。書きたいことが沢山あったのに途中で気持ち悪くなってしまったり、とても大事な何かに触れたかもしれないのに途中で止めてしまったり。

 

時折、そういう言葉の残骸の前に立って唸ってみる。やはりわからない。まだ最初から最後まで心地のいい文書に出会っていない。この文章もダメ。あの文章もダメ…。

 

…残念だが、如何にも観念的で陶酔と憐憫を一杯に含んだこのお話に特段のオチはない。むしろこれは決意表明である。限りなく観念的事由で抹殺された、無意味な言葉たちへ、その意味を見出すための決意表明。

 

今日も消せないブログの下書きには墓碑銘のない文章たちが並んでいる。