【紀行雑記7-2 Frankfurt Central】

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フランクフルト中央駅には改札がない。どころかヨーロッパの駅には基本的に改札がない。したがって街から駅を切り取るものがシステムの上で存在しない。その代わりに時々車掌が回ってきて検札する。我々が旅行者だと分かると、彼らは決まって最後に"良い旅を"と付け加える。

 

アムステルダムから数日をかけてブリュッセル、ルーベン、ケルン、マインツ、そしてフランクフルトを周る旅。ほとんどの移動が鉄道で、我々は旅のほとんどを車内で過ごした。車窓にはどこまでも続く平原が流れる。

鉄道で進む大地には国境がない。どこかの国に縛られるような感覚も突き放されるような感覚も存在しない。いつ国を超えたのか、いくつの国を超えたのか、そういう"離散的"な類の知覚は一切なく、ただ地面が広がり我々はそこを走るだけ。

むしろ国境は"連続的"に訪れる。風景の仔細が少しずつ変化し、注意を払えば人々の会話や掲示板の言葉も少し異なるように見えてくる。離散性の消失が連続性をより色濃く表出し、何かの"境"を超えることを印象させる。

 

地図を広げると、そこには海と陸地があって、陸地にはまるで子供のお絵かきみたいに"国境"が引かれている。考えてみれば奇妙な話だ。私とあなたが異なる何かであることはほとんど自明な理だが、ドイツとベルギーが異なる何かであることは、(少なくとも大地を走る列車の我々には)うまく認識できない。むしろ"国境"として地図の上で習ったから"あぁ、今頃私は国を超えたのかな"と感じることができるわけである。

で、あるならば、日本という国は斯様な文脈では少し特異的かもしれない。四方を海に囲まれ、物理的な意味において他国との連続性を断絶されている。そしてその事実は我々日本人の"くに・ひと・ぶんか"に影響を及ぼしていることは、もうたくさんの学者が指摘したことだろうか。

 

ともかく、彼らは明確な国境を持たないように見えた。どこかの国の国民であることは、各個人のある側面に過ぎないようだ。我々は歴史の上で博物学的知性でもって非常に多くの"箱"を獲得し、そこにいろんな物事を詰め込んだ。性別、宗教、国家、思想…。しかしそういう"カテゴリー分け"は、そのうちに各個人を表象する"個性"へと変容する。もう我々に"境"はない。これからは過去に集めた"箱"をかなぐり捨てて、世界の最小単位である"わたしとあなた"について考えれば良いのだ。

 

レーマー広場でソーセージをかじりながら冷えたビールを飲んでいると、教会の鐘がなった。旅の終わりである。

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